3月22日からの公開に先駆けて、ゲストとして小川紗良さん(文筆家・映像作家・俳優)と北村匡平さん(映画研究者・批評家)をお迎えし、3月5日(火)に神楽座(東京・飯田橋)にてトークイベント付き試写会を開催いたしました。
映画の舞台となる19世紀の時代背景、本作やジェーン・カンピオン監督が後進に与えた影響など、鑑賞する際により本作をよりディープに楽しめるヒントをお話いただきました。
お越しになれなかった方は是非レポートでお楽しみください。
北村:今日はあいにくの雨ですが、雨に一番似合う映画は何か聞かれたら僕は『ピアノ・レッスン』と答えるくらいに、本作の雨は本当に素晴らしいんです。美しい雨、悲しい雨、いろんな表情の雨が映っているので、この映画をご覧いただくのにいいなとポジティブに捉えています。
小川:4Kデジタルリマスターにしたことで、今この映画と出会う人がたくさんいるって、いいですね。
北村:僕が『ピアノ・レッスン』を観たのは、90年代でした。僕は1982年生まれですが、当時はよくわからないまま観たんです。それを改めて観直してみると、すごくアクチュアルな題材で今こそ観るべき映画かもしれないっていうぐらい、非常に“現代性”がある映画だと思いました。小川さんはどうでしたか?
小川:名作としてもちろん知っていました。映画を学ぶ中で必ず出てくる作品なので観なきゃ、観たいと思いつつも観れていなかった名作のうちの1本でした。観れていなかった理由の1つに、“官能的な映画”みたいなざっくりしたイメージや評判が壁になっていたんですが、今回4Kになるのを機にお声がけいただいてやっと観れたんです。
実際に観てみると、官能的な印象よりも、なんて荒々しい、力強い映画なんだろうということをまず感じました。先ほど雨の話が出ましたが、冒頭から天気が大荒れですよね。海の荒れ方とか、山の中での撮影だとか、すべてが容赦なかったです。それ以外にも、主人公に声を発せさせない設定もそうだし、子役のお芝居なんかにも強いこだわりを感じました。すべての細やかな部分にまで徹底している感じが、胸に迫りました。
北村:確かにワンショットに込められてる力強さが凄まじいですよね。みなぎる力がワンショットワンショットにあって、すごくこだわって作っているのが伝わってきます。
小川:主人公がものすごく意志の強い女性だと思ったんですけど、その世界観を作り出したカンピオン監督の意志の強さを一番感じました。
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北村:本作には、映画が公開された後にジェーン・カンピオンとケイト・プリンジャーという小説家の方が共著で書いた小説があります。
この小説はただのノベライズではなく、筋は同じなんですが、エイダや他のキャラクターの背景をかなり細部まで描いているんです。なぜエイダが声を発さないことにしたかというのも明確に描かれています。
僕は最初この映画を観たとき、家父長制の権力に苦痛を味わって悲劇的な結末を迎える話に思えたんですが、観返すと、この人はもっと何か違うものを描いてるぞというふうに思い直したんですね。そう思ったのは、やっぱりカンピオンの演出であり、ホリー・ハンターの演技ですね。
映画の冒頭で、スコットランドからニュージーランドにやってきたエイダを夫となるスチュアートが迎え、エイダに向かって“Can you hear me?”とゆっくりと大きな声で言います。映画にも出てくるシーンですが、エイダはこの言い方に侮辱されたと感じた、と小説に書かれています。一方でスチュアートに「どう思う?」と聞かれたベインズは、“She looks tired.(彼女は疲れているように見える)”と言うんです。ベインズは彼女の表情だったり彼女のことを最初からちゃんと見ているんですね。そういった部分も含めて、小説で読んでから映画を観直すと、緻密な細部の演出がすごく練られているな、やっぱりすごいなと思いました。
だから今日ご覧になった後に、ぜひ小説も読んでほしいなと思っています。
小川:おっしゃったように、エイダは家父長制が現代よりも顕著な19世紀の、すごく不自由な状況にいる女性ですよね。一方的に決められた結婚でニュージーランドにやってきて、その後の暮らしでも彼女に決定権は全くなく、音楽だけが彼女の声、思いを表すものです。そういう不自由な状況を描いていながらも、私がこの映画全体から受け取ったイメージは全く悲劇的ではなく、<不自由な状況にいた女性が自分の主体性を取り戻していく話>なのかなと思いました。その主体性を取り戻すために、性愛もその人の人格を表すものとしてとても大事だし、そういう意味での官能表現があったんだなっていうのを観てから思いましたね。
北村:そうですね、やっぱり19世紀という時代設定がとても大事ですね。
スコットランドは大英帝国の一部で、ピューリタリズムの高揚する19世紀当時、ヴィクトリア朝の社会規範、女性の規範というのはすごくがんじがらめでした。ですから、女性に貞節や男性に対して従順であるということを求める社会規範が非常に強かったんです。その時代にエイダがどういう行動をするのかということを鑑賞前にちょっと想像してみるといいと思います。
ジェーン・カンピオンの名前を『パワー・オブ・ザ・ドッグ』で知った人も結構いると思うんですが、このテーマは『パワー~』にも通底するんですよね。『パワー~』は1925年のアメリカの保守的なモンタナ州を舞台にした西部劇的な設定です。ベネディクト・カンバーバッチ演じる主人公はカウボーイです。西部劇と言えば、強いマスキュリニティ(男らしさ)を見せつけるジャンルでした。この映画が描いているのも、男性性の問題です。西部劇のジャンルのコードにのっとって主人公は人前では清潔さを隠し、表では男らしさを誇示しますが、ゲイという自分のセクシュアリティは隠す。その裏の場所が森の中の湖です。ここで泥を体に塗って洗い落とすシーンがあって、森の水浴び場は彼の本当のペルソナが現れる場所でもあるわけです。「水」というモチーフも『ピアノ・レッスン』と通底していますね。この映画はゲイであることを隠さなければならない時代と場所で、男性性のあり方を問い直している――強いジェンダー規範のある時代・場所にコンテクストを置いてそこで男性性とか女性性を問い直そうとするような作品をカンピオンはずっと撮っているんだなと思います。
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北村:今のこの2020年代的な感覚から見ると、ベインズが鍵盤とエイダの身体を取引するような物語設定は性加害的なニュアンスがあるんですが、エイダは声を発さないかわりに、ピアノが彼女の声になっています。最初は彼女も嫌がっていますし、小説でも明確にその心情が書かれています。けれど、それがどういうふうに変化していくのか、ベインズとスチュアートとの対照性を観ていくといいと思います。スチュアートは、紳士的にどうあるべきかみたいな理想化された男性性のようなものにしがみついている人物として描かれている。べインズもスコットランドから移住してきた人なんですが、先住民であるマオリに同化するように暮らしている人物です。彼はスチュアートと対照的で、自ら全裸になったりありのままの自分をさらけ出そうとする。その対照性に着目して観てみるといいと思います。
小川:スチュアートたちが家父長制的な暮らしをする中、そんな暮らしぶりに対するのが先住民というのも面白いなと思いました。古くから昔ながらの暮らしをしている人たちで、彼らと関わる中でエイダを縛っていたものがほどけていく、原点回帰していく中でほどけていくみたいな、その対比の仕方も新鮮でした。
北村:「ほどけていく」って素晴らしい言葉ですね。いろんなしがらみの中で生きざるを得ない女性が、べインズとの細かいコミュニケーションの中で次第にほどけていく。最初は暴力的な面も確かにあると思いますが、どういうふうにそれを受け入れていくのか。女性が家父長制の環境に身を置きつつも、自ら強い主体性を獲得していくことを描いたこの作品の延長線上にあるのが『哀れなるものたち』で、根底にある思想はかなり近いと思っています。
小川:確かに言われてみれば。
北村:『哀れなるものたち』は女性の主体性をすごくわかりやすく明確に描いていると思います。
カンピオンの優れているところは、理性があるんだけれども、それを裏切って身体が反応してしまうという、そういうままならない身体の揺らぎを捉えているところだと思っています。非常に生々しくリアルなんですよね。論理とか理性とか、女性の主体性はこうでこうで…みたいな説明ではなくて、理性ではどうにもならない衝動的に身体が反応してしまう瞬間、そういった身体的な揺らぎがワンショットでちゃんと描かれている。そこがすごいと思いますね。
小川:確かにこの映画って結果的には女性の生き方とか、女性作家のあり方っていうものをすごく前進させていると思うんです。でもこの作品を観た時にフェミニズム的な強いメッセージを感じないというか、それを打ち出す映画じゃない、だけど結果的にそうなっているのがすごいところだなと思いました。
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小川:少し話が変わりますが、この作品がパルム・ドールをとったことは、カンピオンが映画界の流れを変えた瞬間でもあったと思うんですが、当時の日本の映画界はどういう状況だったんですか。
北村:日本の映画界において、女性で劇映画の監督になった人は田中絹代に代表されるようにほとんどが最初はスター女優として知名度が高かった人です。1950年代には記録映画などのジャンルで女性監督が多く活躍していたんですが、劇映画を撮る人はずっと現れなかったんです。
女優出身でない、劇映画で注目された女性監督としては、1980年代に出てきた風間志織が挙げられると思います。その後、1997年のカンヌ国際映画祭で河瀨直美がカメラ・ドールを受賞して広く知られ、2000年代に入って西川美和らが出てきます。海外ではソフィア・コッポラが2003年に『ロスト・イン・トランスレーション』を撮って日本でも熱狂的に受け入れられます。海外ではもっと早くに女性監督が活躍していましたが、日本では2000年代に女性監督が大勢現れたなって印象です。
そんな感じなので、カンピオンってソフィア・コッポラや日本で一気に登場してきた女性監督たちより少し前の人なんですよね。
小川:なるほど。今、日本でも世界でも女性の監督がさらに増えている状況の中で、『ピアノ・レッスン』が4Kになって再び観られるってすごく必然性を感じるというか、いいタイミングですね。
北村:ここしかないタイミングだって思いますね。あと『哀れなるものたち』がこれだけ日本でヒットしてる時期というのもすごく素晴らしいタイミングだと思いました。30年も時が隔てられるとイデオロギーや社会規範なんかも変わってきますし、当然描いてる内容も違うんですが、根底にあるものは直結するんじゃないかと思っています。今、たくさん撮られているフェミニズムの映画の系譜にあると思いますので、そういった作品と一緒に観ていくといろんな発見が生まれて、カンピオンの先駆性がわかるんじゃないかなと思いますね。
小川:そうですね。今観ても新鮮に映るということからも、カンピオンがやったことって早かったんだなって思います。